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とうとう、江戸川のハゼの釣果が累計20万尾になりました。1日で1000尾以上釣り上げた日は76回ありました。14年かけての実績ですが、とても1人の胃袋には収まりきれません。
その獲物を当たり前のように横取りして、仕立船の酔客に振舞う船宿があります。その宿には「追いはぎ船長」と自称する亭主がいます。名付け親は、「TVタックル」(テレビ朝日系列)という番組の主演者のビートたけしさん、その人でした。そのとき私も同席していました。
亭主は、宿にくる腕自慢の強腕たちに自慢していました。「鈴木さんに勝ったら、1年分の船賃をタダにする」というのです。彼は桟橋から双眼鏡で私を捜しては、そんな釣り客たちに見せるのです。私のボートの周囲には、そんな自薦他薦の名人がたいがい、1人や2人はいました。しかし今までのところ、無料券を手にした人はいないようです。船宿では、私のことを陰で「すーさん」とあだ名しているようです。家族や友人たちは「釣りバカ」と言っています。釣り人にとって、それは勲章のような称号ですから、心地よい響きの言葉なのです。決して蔑んだものとは思わないものなのです
最近、5冊目の本を文芸社から出しました。「週刊つりニュース」という新聞に23週にわたって連載したエッセイをまとめた「僕らはハゼっ子」という著書で、「追いはぎ船長」氏に進呈しました。行きつけのほかの船宿にもチラシを出しました。
そのかいあって、10月のある日、漁業組合の役員から慌ただしく依頼が舞い込みました。NHKの生中継番組「ひるどき日本列島」に「ハゼ釣り名人として出てほしい」というのです。もちろん、2つ返事で引き受けました。カメラが回っている2分間に、女優さんにハゼを釣り上げてもらう、という趣向です。詳細は「カット」しますが、番組は大成功でした。その1週間後に、地元の史跡探訪の行事に参加したところ、参加した女性数人から「テレビに出たでしょう」と言われました。視聴率は、さすがに高かったようです。
3年前に「おばばと一郎」を書いたとき、正直に言えば、出版する気持ちはありませんでした。それは、家族に残す鈴木家のルーツ、その他の幾編かの未発表の著書を補足する作品だったからです。その手作りの文集を身近な人に20部ほど配布して、私の気持ちは終わっていました。
2年前、7月のある日のことです。夕食の後に、妻が文芸社の新聞を差し出しました。彼女は「おばばと一郎」を読んで泣いてくれました。そしてこのままではもったいないというのです。そんなことがあって、私の気持ちにすっかり火が着いてしまいました。今のようにしたのは妻なのです。私は、ただただ彼女に見てもらいたくて、次々と続編を書きました。出版するにはお金がかかりますから、彼女にとってはきっと迷惑だったかも知れませんが。
私の住んでいる地域は、7万世帯、15万人の都会です。そこに、発行部数5万部のタウン紙があり、私は出版のたびに著書を寄贈しました。すると、ありがたいことに、新刊紹介をしていただいた上に、思いもかけぬ話がありました。新聞に地域のことを連載で書いてみませんか、ということでした。このときも、すぐに引き受けました。どうなるかわかりませんが、結果を考えずに一生懸命に挑戦してみようと思ったのです。
前作の執筆までに、地元の歴史などを調べていました。そこで、「行徳・つりと歴史散歩」と題して書き始めました。他の地域の人にはよく分からなくても、この新聞が配布される地域の人には分かってもらえる、という地域に密着した内容にしました。
例えば、路傍の馬頭観音像について、それまでは1行か2行でかかれていただけのものを、取り上げ方を変えれば100行にもなったのです。また、史跡の紹介、由来の説明なども、似通った記述が目に付くのですが、私はそれに物足りなさを感じていました。
「弁財天は天竺の神であり、御舟玉の神である。この場所は、昔は「湊」だったので、この御舟玉の神がある。寛延2(1749)年に著された「葛飾記」によれば、弁天山の森は潮除堤(防潮堤)の上にあった。その潮除堤は元禄時代(1688〜1703)に築造された堤であり、堤がなかった頃の弁天山の森は干潟の中にそびえる島だった。「湊」にくる船、河口が締め切られるまでここから江戸川へ出入りしていた船は、弁天山の森を目標にして航行していた」というように、できるだけ具体的に書きました。
私と同様の思いを持つ人からの反響もありました。
例えば、大学の文化史の授業で地元の行徳の歴史を勉強したいと言う社会人の女性から、掲載済みの「行徳・つりと歴史散歩」の記事のコピーと私へのインタビューを依頼するFAXが新聞社に届いたこともあります。
5冊目の本を出したときも、いろいろなことがありました。このタウン紙に読者プレゼントとして著書を載せてもらいました。応募ハガキに「鈴木先生は我が町の自治会長さんです」と書いてくださった方もいました。地元小学校から、6年生の授業で昔の土地のことを話して欲しい、といわれて行きました。「おばばと一郎」の内容を語ると、子供たちは「えぇー、ここは海だったのー」などと、わいわい、がやがやとにぎやかでした。120名の児童が床に座ってキラキラとした瞳で見上げているのです。ハイハイと挙げる手がかわいらしかったのが印象に残っています。中学校からは、戦争体験を語ってほしい、と依頼されて講義をしました。
出版して大きな反響の一つは、地元自治会長に推されたことでした。
役員仲間の人達は、私の著書を買いに行って読んでくれたようでした。引っ込み思案の私は、なかなか皆さんに売り込めませんので、宣伝などはほとんどしないのです。広めるための努力を積極的にできないというのは欠点なのかな、とときどき思います。
最近では、公民館主催の郷土の歴史の講座を担当しています。昨年に依頼があり、、多忙を理由にお断りしたのですが、今年は断りきれずに受けました。受講生は25名ですが、みなさん休まずに出席されています。
私は、先祖のこと、自分のことを、子どもたちや孫たちに伝え残したいと考えて、「家族史」「自分史」のようなものを書きました。そのうち一部を出版したのですが、波紋は多方面に広がりました。
その波紋は、現役を退いた私にとって、いつのまにか、生きている証しのようなものになったのです。続編の出版を希望する方も多々おられます。その方たちの笑顔に接すると「あぁ、本をだしてよかったなぁ」としみじみ思うのです。
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